マルティン・ハイデッガー

1889年にマルティン・ハイデッガーは帝政ドイツのバーデン大公国メスキルヒにて、地元のカトリック教会の樽職人のフリードリヒとヨハンナの第一子として生まれた。
敬虔な両親の教育もあり、ハイデッガーは初めは神学を学んだ。
1903年からコンスタンツで、1906年からフライブルク大学で学び、1909年にギムナジウムを卒業した後にはイエズス修道会に加入する。
心臓の病気により修道の道を断念した後は、1911年までフライブルク大学の神学部で学んでいた。
この時期にも幾つか論文を執筆しており、それらは今日出版されている。
1911年に哲学に専攻を変更し、数学、歴史学、自然科学を共に学ぶ。
当時、フライブルク大学の哲学講座は西南ドイツ学派のリッケルトが有しており、ハイデッガーの最初の哲学的訓練もそれに則したものとなった。

ポール・モートン

1875年、モートンはイリノイ州シカゴに移り住み、シカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道に就職した。
モートンは一般貨物取扱の部門で働いた。その後モートンはアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道に移り、最終的に副社長となった。
モートンは金本位制を支持する民主党の党員であったが、1900年に共和党に移った。
1904年6月、モートンは共和党内における厚い人脈と経済界における事業の成功が評価され、セオドア・ルーズベルト大統領によって海軍長官に指名された。
この指名は、ルーズベルト大統領が前任の海軍長官ウィリアム・ヘンリー・ムーディのポストを司法長官に移したことに伴う、突然のものであった。
モートンは合衆国海軍の事務についてほとんど何も知らない状態であったが、同年12月4日にモートンは上院の承認を受けた。

平林金吾

金吾は安藤喜代三郎・つね夫妻の三男として生まれ、その後伯母である平林家の養子となり東京に移住。
芝中学を経て東京高等工業学校建築科卒業。
その後入社した倉庫設計の会社で高橋貞太郎と出会う。
この高橋の勧めでこの会社を退職し内務省明治神宮造営局技手として宝物殿の工事管理に従事、同完成後は高橋が勤務する宮内省に勤務。
内務省在籍中の1918年、同僚だった岡本馨との連名で大阪府庁舎の建築設計競技に応募し、見事一等当選を果たす。
同庁舎は1926年に完成したが、応募作から大きな手直しはされなかったという。
また平林と岡本の連名作では建築学会会館のコンペでも一等となるが、関東大震災の影響で建設は見送られている。

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